2018年10月22日 (月)

だれの真似もする必要はない

 バドミントンが強くなりたいと聞いて「だれの真似もする必要はない」と答えた。自分の道を探した。自分のもっている特長を生かすようにする。人の真似をする必要はない。
 選手はその感性がないとやっていけなかった。人の頭で考えるのではない。自分の頭で考えるのだった。バドミントンにもっとも必要なのは着想になった。
 お話し変わって、限界とはなんだである。限界には限界はなかった。個々の選手の目標である。限界を超えればつぎの限界が生まれるのである。
 バドミントンは不可能に挑戦するのではなかった。人間にできないことを発見した。もちろんいい練習が奇跡を必然に変えるのだ。
(*二〇一八年十月二十二日記)

2018年10月15日 (月)

自主性尊重する

 バドミントンが、自主性が大事だということは知っていた。人間という器の中に活動力や技能を注入することはできなかった。あらゆる成長、発展の契機は選手自身の細胞分裂を待たないといけなかった。指導者は選手が感覚的に納得でき、技術向上への意欲が継続的に湧いてくるような環境をつくることに専念するのだ。
 そうした環境の中から自主性が生まれるのである。それが選手自身の飛躍につながった。
 私はむろん強制は無力だと思っていた。選手が自分で考え動くことが大事なバドミントンにはそぐわないのである。指導は50%、50%は自分で考えてになった。バドミントンは自分発でないと続かなかった。
(*二〇一八年十月十五日記)

2018年10月 8日 (月)

「フット・ワーク」シャトルを投げ入れる 

 バドミントンはフット・ワークがいちばん大事である。この練習は指導者が相手側のコートの台の上に立って、ネット前からシャトルを投げ入れる。
 選手の右後ろに投げる。左後ろに投げ、右横に投げた。
 左横に投げ、右前に投げる。左前に投げる。体の中心に投げたい。
 選手のいちばん苦しいところに投げます。選手の動きの逆になるところに投げる。シャトルはがんばれば取れる、がんばらなければ取れないところに投げるというとみなの背は微かに動く。
 3分間を十回する。それでは心臓が破裂するから、最初は一回、そうとうな基礎体力が必要だ、やってくれたまえ。
(*二〇一八年十月八日記)

2018年10月 1日 (月)

私がバドミントンをするのはなんのため

Img_2084 私がはじめてバドミントンと出会ったのは一九六四年のことだった。私がバドミントンにのめり込んだのは浅からぬ縁だといえばいえるが、そうとばかりは思わない。何度もバドミントンが嫌になっている。普通ならやめるところ、そこは鵞鳥の血が流れているという私である。別れる気にはなれなかった。
 バドミントンは恋人である。バドミントンがあるから自分の人生があるのである。なにがそんなにいいのかになった。バドミントンは間違うから面白いのだった。
 なにが起こるか分からない怖さに挑戦する楽しみがあった。最大の危険には最大の期待が籠もっていた。シャトルを打っているときがいちばん仕合わせだなんて、異常な世界だろう。
 どんな人にも失敗はあるだろう。要はその失敗をどう楽しむかになる。私を鍛えるものはいろいろある。バドミントンに勝るものはないと思っている。好きなもので楽しいなら人はだれに命令されなくたって集中するだろう。
 強くなる秘訣は楽しむことがある。自分への甘えを捨てるのである。バドミントンは自分を心豊かにしてくれる。
 励みになるのである。がんばりが利く体力、気力を養うだろう。バドミントンは御飯のおかずのようなものだろう。ちなみに、一番というのはいちど優勝するのが一番ではない。ただ人は優勝を続けるばかりの存在ではない。勝利を分け合うのもバドミントンなら負けを分け合うのもバドミントンです。素晴らしい敗者であってこそバドミントン選手になる。私は百人の外交官より一人のバドミントン選手の方が勝ると考えている。
(*二〇一八年十月一日記)

2018年9月17日 (月)

30分練習が仇になる

 バドミントンの練習は長くしてはいけない。試合を見てみたまえ。短ければ20分ぐらいで終わる。
 三ゲームになっても1時間ぐらいで終わる。日本人の練習はとかくだらだらと長い。試合は全力で短いがこれは明らかに矛盾する。さりとて練習時間を短くする才能はない。だから、30分練習というとぎくりとする。
 30分は何か月、何年間が凝縮された時間になる。30分やったら倒れてしまうかもしれない。地獄の練習だからご用心。
 ひたすら30分するのである。1時間も、2時間もいらない。30分でいい。集中力のない練習はただの時間泥棒でよくない。そう親切のつもりでいえばいうほどみなを迷わす。
(*二〇一八年九月十七日記)

2018年9月10日 (月)

フェイントに満ちている

 バドミントンはフェイントに満ちているというのは私だけではない。前と見せて後ろにやるのである。速いと見せて遅くやる。
 右に打つような格好で左にやるのである。相手に予断を許さないようにする。フェイントはまず基本練習を完璧に習得する。
 その上でどうしたら相手を欺くことができるか考えよう。まず手首による欺きをしたい。
 間合いによる欺きをしてくれ。速さの幻惑になった。
 ラケットの振りによる幻惑をする。顔や体の向きによる欺きをする。フェイントにかからず抵抗なくつぎの動きに移れるのは柳の木状態になる。
(*二〇一八年九月十日記)

2018年9月 3日 (月)

みなさん天才になりましょう

 バドミントン選手は長く努力を続けられることだという。それが苦痛ではないことになる。
 それが本当の才能だとは何回か書いた。人の能力差はせいぜい二、三倍ではないか。けれどもやる気は百倍異なる。
 努力家は天才に近づくのである。心のないところに偉大なやり方は存在しなかった。
 天才って二種類あるだろう。一つは身体能力の天才だろう。もう一つは恵まれていない点を補う天才である。努力も夢中にはかなわないが、選手諸君、バドミントンが好きというのも才能ですぞ。
(*二〇一八年九月三日記)

2018年8月27日 (月)

中国人だけは違うという

 アジア競技大会を中継するテレビ局が中国人の氏名を日本語読みしているのを、私は笑っている。バドミントンだが、陳雨菲さんをチン・ウヒといっている。
 中国人の氏名は原語読みすべきだと私は何度も注意した。陳雨菲はチン・ウヒではない。チェン・ユーフェイといわなければ分からない。運動服の背面にそう書いてあるだろう。
 中国人の氏名を原語読みするのは才能である。テレビ局にそんな才はない。あるのは日本語読みである。拘りである。だから、中国人の氏名は原語読みしようと、以前から強くいってきた。それをテレビ局が日本語読みするのは開局以来の珍事である。
(*二〇一八年八月二十七日記)

2018年8月20日 (月)

中止になった東アジア・ユース

Area_40_sum640_1353552023 来年の八月に台湾の台中で、開催される予定だった東アジア・ユース・ゲームスが急遽中止になったのは解せない。中国が大会が政治干渉に直面していると、東アジア五輪委員会の会合で訴えたらしい。台湾は反対している。日本は棄権している。
 中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、マカオ、香港は賛成。中国がいうところの政治干渉とはになった。これは東京五輪に中華台北ではなく台湾で参加を目指す動きで、台湾独立派が賛否を問う住民投票の実現に向けて署名活動をしていることを指した。
 中国はこの動きを五輪方式への挑戦と非難したのである。本当の狙いはそうではないのである。一つの中国を受け入れない台湾独立派に圧力をかけることにあったが、これこそ大会への政治干渉になった。
(*二〇一八年八月二十日記)

2018年8月13日 (月)

古い体質

 世間が怪しんでいるのに当人が怪しまないことが山ほどある。ことにスポーツ界にある。虐めや嫌がらせ、暴力、買春、禁止薬物使用、助成金の不正流用、組織の私物化、金銭問題などがあった。そうしてみれば何事だと世間は思うが当人は思わない。いまさら自浄能力がないといいたくないのだろう。
 競技団体の役員は現場の指導者がなっているのはなぜだろう。外部役員、選手役員がいなかった。そのことに私は驚いている。
 この問題には閉鎖性が絡んでいる。競技団体には昭和的な悪習があるのである。それを次世代に残さないようにしないといけない。なのになぜか一言も触れない。日本のスポーツ界とはつねにかくのごとしという例の一つとしてあげた。
(*二〇一八年八月十三日記)

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