2017年5月25日 (木)

反省だけなら猿でもできる

 知人がバドミントンの試合でいつも負けるのである。なかなか勝たせてもらえない。
 いかにも彼は反省した。もう反省はいいのだった。いまだに彼は反省を繰り返している。反省するだけでなにもしないのだったら、山でも走った方がいいと答えたい。
 またなにかといえばがんばるというのである。がんばるは我に張るになる。これはある場所を占めて動かないのはご存じのとおりである。
 バドミントンはがんばらないに限る。名人や達人を見るとがんばっている人は皆無ということができる。彼らはそれが好きで好きでたまらないことが分かる。反省だけなら猿でもできるが今回はここまで。
(*二〇一七年五月二十五日記)

2017年5月22日 (月)

会員対役員

 競技団体に対して、会員の関心がなかった。無関心だった。
 むろんよくない。これは会員が悪い。競技団体は会員が関心をもたなければだいいち変えられない。変えられなければよくならない。
 競技団体の歴史の半分は会員と役員の戦いである。競技団体の規約は役員の暴走に歯止めをかけるためにあった。競技団体は会員がつくっていかないといけなかった。
 変えるのはいわゆるよそ者、若者、ばか者である。このとき競技団体はどう出るか、役員というものの正体が現れるだろう。
(*二〇一七年五月二十二日記)

2017年5月18日 (木)

「基本練習」三年かかる

 バドミントンは簡単には上達しない。基本練習に三年の時間を要した。
 「石の上にも三年」なので取り次ぐ。冷たい石もその上に三年座り続ければ暖かくなるという。ついでに私見を一、二述べたい。
 バドミントンの修行はだいたい十年かかる。約1万時間の練習になる。強くなるには十代で百試合以上の国際試合の経験が必要になる。
 多くのものが途中で脱落した。強くなるものは千人に一人いるかいないかになった。バドミントンは四、五年やってものにならなければやめた方がいいのではなかろうか。八年もやって強くならないのは指導者が悪かったか、見込みがないかのどちらかである。
(*二〇一七年五月十八日記)

2017年5月15日 (月)

失敗する練習をしてみる

 私は「健身の羽球コラム」を連載している。どうも面白くない。
 少しでもいいブログにしたい。いつもそう思っている。
 バドミントンのブログはだれが書いたものでもこれといったものはない。だから、一つ読めばいいのである。私の前作を読んで面白くなかった人は気を落とすことはない。あなたはたまたま愚作を読んだ可能性があるのである。
 どうか次作を読んでもらいたいのである。
 お話し変わって、みなは失敗しない練習をするのである。そうではなくて、失敗する練習をした。こうすれば失敗すると分かる。
 それが分からないといけないのである。こうすれば失敗しない骨を掴むのでした。
(*二〇一七年五月十五日記)

2017年5月11日 (木)

審判 

2014hayaenc03 バドミントンはコート内の選手より審判の方が多い競技になる。スーパー・シリーズを見ると主審、副審以外に十人の線審がいるから、変な気がする。線審はときどき誤審があるのである。
 近年はビデオ判定機の導入が進んだだろう。選手には一試合で二度の異議権が与えられるのだ。選手が異議申し立てをして判定が覆ることがあるのである。
 それで今後は審判は不要になるのかになった。そんなことはない。スポーツは選手と審判がいないと成り立たなかった。ビデオは審判団の一員と考えたい。ビデオの導入は故意の誤審をする国には気の毒なことをした。あれはあれで面白かったのである。
(*二〇一七年五月十一日記)

2017年5月 8日 (月)

指導者指導を誤る

 いつか私は多くのバドミントン指導者の目はつねに試合に向いているといった。指導者というものは勝利を欲するからこんなことがあるのである。
 基本練習ができないまま試合に出ているものがいた。私は基本練習ができるようになってから出た方がいいぞといったがことごとく無視された。
 体力づくりはしないのかと私は高校の監督に聞いたことがある。みすみす嫌われることをいうのは愚かである。高校は正味一年十か月、そんなことをしている時間はないといって受けつけない。私は笑って呆れるに至った。
 それは昔のことでいまのことではないというものがあるがそうか。多くの指導者は選手を見ないで試合を見ていた。指導者が指導を誤るのはいまも昔もないのである。
(*二〇一七年五月八日記)

2017年5月 4日 (木)

ピーターの法則

 社会学に「ピーターの法則」というのがある。面白い。階層社会において人は能力の極限まで出世すると思われる。
 有能な平は無能な中間管理職になるのである。無能な平はそのまま平に落ち着くことにになる。だから、各階層は無能なもので埋め尽くされた。
 組織の仕事はまだ無能の域に達していない人によって遂行されるという。そうローレンス・J・ピーターさん(南カリフォルニア大学教授)が書いているのである。あらゆる侮辱に人は耐えなければならない。競技団体の役員も指導者も選手もいずれは私のように無能になって恥じなくなるだろう。
(*二〇一七年五月四日記)

2017年5月 1日 (月)

限りなく真実に近い嘘

 コラムを書いていると、ときどき反響があった。賛否両論あった。あなたのコラムは過激な人には面白いです。おとなしい人には過激過ぎますといわれて私は笑った。
 心配していたら、あれは作り話だとすぐ分かってくれた。だいいち本当のことなんか書けるわけがない。限りなく真実に近い嘘だと分かってくれたのは、めでたい。
 もっともなかには本気にするものがあった。
 私のコラムを読んでいちいち怒っているのである。
 それでいて私のコラムの数少ない贔屓になる。読まなきゃいいのに読むのだからきっとそうなのです。
(*二〇一七年五月一日記)

2017年4月27日 (木)

指導者の資格はと問われて

 某市のスポーツ指導者情報機関に登録して驚いた。資格は公認スポーツ指導者か教員免許をもったものというのである。私は両方もっていた。
 教員免許は高校の商業になった。商業ごときがバドミントンの指導に役立つのかになる。まさかというのに勇気がいった。
 ついでだから全日本チームの監督やコーチは指導者として登録できるのかと聞いてみた。同じ返事が返ってきたのである。五輪選手も駄目なのだろうか。人をして惑わしめる話である。
 私はスポーツに堪能で、規律をよく守る知的な人であればだれでもいいのではないかと思っている。たいていみなそうである。
(*二〇一七年四月二十七日記)

2017年4月24日 (月)

いま五輪選手というもの

 五輪選手とはどういうものか、芸人だということを私は思い出した。芸人は遊芸・芸能を職業とする人だという。当たり前である。私は芸に巧みな人だと思っている。
 五輪選手といえば芸人の中の芸人である。金メダルを取ったら大騒ぎになる。園遊会に招かれるのだ。テレビの演芸番組から声がかかった。名前なんてものは茶の間で飴玉代わりに1分間しゃぶられるものでしかないのである。みな弱いときは鼻も引っかけない。
 見向きもしないのである。それが強くなったらこの騒ぎになった。彼らは芸人なのである。大衆の気晴らしなのである。玩具なのである。たぶんその自覚がないだろう。
(*二〇一七年四月二十四日記)

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