好きと恩返しと指導をともにいう
どうしてこんなにスポーツにのぼせるようになったのかと、記者がある指導者に尋ねていた。今日の私を育ててくださった方々や競技団体への恩返しのつもりであると述べている。一言いう。
「万のことみなもって空言、戯言、真実あることなし」だった。当人は悦に入っているから、彼のスポーツ大好きがそうさせていると、いっても分かるまい。スポーツにのぼせることと恩返しはなんの関係もないと、付け加える。
そうではあるが、当人はこれでいいと、まさかとは思うが思うかもしれない。だから、損得なのだ。なにひとつ得がなけりゃだれも指導なんてしやしないとさらにつけ加えて、人間みな損得で動くというと、みなは爆笑する。
古人は「芸談には聞くべきこと少なし」といって耳を傾けなかった、人間だれだっていわせりゃ恩返しのつもりぐらい平気でいうのである。それを慎むのが真の指導者である。けれども人間唆されりゃなにをいうか分かりはしない、私だってなにいうか分かりはしないのだ。ただ私は今日の私を育ててくださった方々や競技団体への恩返しのつもりであるなんてけしていわない。それは私みたいな捻くれ人間にはとても恥ずかしいことだからである。
お話変わって、あらゆる指導は有害ではないか、このごろそう思うようになったのは、ひとえに型にはめる日本式指導法では駄目だと思うようになったからだ。さりとて指導はなくならないだろう。あれは自分のコピーを増やすようで嫌だが、指導で天才はつくれない、指導に正解はないというと、本当ですかと飛びあがる。
本当だともバドミントンは自分で研究を重ねてやることが大切なんだよというと信じてくれる。教えたがるものから学ぶことはないという。私だとて教えたがることもあるのである。
(*二〇〇九年十一月九日記)


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