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2008年2月28日 (木)

手本は卓球にある 

学校名、企業名など日本のバドミントン大会で見る選手の背面は後援者名ばかりである。みな選手の氏名が知りたいのに、頑として後援者名を出すのはどういうつもりだろう。そんな国がほかにあるだろうか。あるとすればそれは、スポーツが個人のものになっていない国だと私はいっている。
海外ではこういった光景はほとんど見られないという。それはいま始まったことではない。スポーツが生まれた昔からそうである。
氏名表示はいうまでもない。選手の氏名を知らない観客は山ほどいる。それを見て氏名表示をしないと分からないといっても、承知しない。ちなみに、氏名表示はあらゆるスポーツで世界の流れだという。
毎年日本で開かれるジャパンオープン・バドミントン選手権大会を見ると、林丹さん(中国)、タウフィック・ヒダヤットさん(インドネシア)、リー・チョンウェイさん(マレーシア)以下十数名までは分かっても後は分からない。選手は世界各国からきているが、全員分かる人は一人もいない。運動服の背面に氏名表示がなくては分からない、ましてや一般の観客はという。
日本のバドミントンが氏名表示をしないのは、これを使いこなす才能と教養がないからである。卓球を見るがいい。そこには観客にやさしい選手の氏名がある。背面に表示されている。すぐ分かるようにしてある。
バドミントンは氏名表示をしなければ分からないのに、それをしないのはその発想がないからである。卓球を見れば彼らの感覚がいかに普通か分かるだろう。はやく真似することである。
(*二〇〇八年二月二十八日記)

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2008年2月21日 (木)

中東の笛 

ハンドボールの北京五輪アジア予選再試合(二〇〇八年一月・東京)はというと、凄く盛りあがったという。ハンドボールはアジア予選(二〇〇七年八、九月・豊田市)で不公平な判定が相次いだ。なぜ公平にできない。
ヨルダンやイランの審判がクウェートの王族の意向を受けて、中東寄りの笛を吹いたからである。彼らといったら、平気でそういったことをする。笛は中立国の審判が吹かなければならないのに、アジアハンドボール連盟(AHF)は聞き入れなかった。
そうなのは、クウェートの王族がAHFを支配しているからである。
AHFは二〇〇八年一月五日、再試合を拒否することを決めている。その常任理事会というのがおかしかった。常任理事会はというと、アハマド・ソバハ会長の母国であるクウェートの代表が六人のうち三人を占めていた。
六人のうち三人とはなにか。これからして公平ではない。これでは会議にならない。ただの儀式である。クウェートの王族はこうして会議を支配しようとする。財政基盤が弱い他国の幹部を接待し、役員選挙で票を集めるというのであるか。中東の国が負けそうだと会長が降りてきて審判を替えたりした。思い通りにならなかったら、今度は難癖をつける。ある大会では審判が大会関係者に軟禁されて試合が2時間半も中断したことがあったという。
こうしたことはハンドボールをつまらなくするだけである。その考えぶりは日本人とは違う。ハンドボールを玩具にしている。石油の力で押さえつけたいのだろう。
日本人にとって中東の笛は疑惑だがクウェートの王族にはそうではない。その証拠にAHFは再試合を行う国や参加国は加盟資格を停止するといったが、カタール、アラブ首長国連邦、カザフスタンは恐れおののく。恐れる意味と内容が違うのだった。脅しをかけたから再試合は日本と韓国だけになった。
中東の笛はずっと以前からあったのである。十年前も十五年前もそうで、問題になっていた。みな困っていた。ハンドボールがクウェートの王族に頼らなければならなくなったのは、彼らがお金をもっていたからである。国際ハンドボール連盟(IHF)の中で、AHFの影響力は大きいのだった。いわば自業自得である。
ついこの間まで日本のハンドボールは話題にもならなかった。二流スポーツだった。日本ハンドボールリーグの観客数は一試合平均七百人だ、それが思わぬ形で脚光を浴びたのだった。中東の笛に乗じてわが国のハンドボールは神風が吹いたのに、男子アジア選手権(二〇〇八年二月・イスファハン)で過去最低の七位なのはどういう力か。この機会を逃したら、もう、永久に一流スポーツにはならないぞ。
(*二〇〇八年二月二十一日記)

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2008年2月14日 (木)

単は嫌だはだれのせい 

「単は嫌だはだれのせい」といってラケット店の店長が笑っている。といっても信じまいが小学生で、単をするのは嫌だという子がいるのである。単はきついので、複の方がいいといっている。
そんな子どもがいるのかと怪しむだろうがいるのである。小学生にいるのである。冗談ではないかと思っている。この子は六年生だ。公認スポーツ指導者(指導者)が指導している。日ごろどんな指導をしているかだった。指導とは、よりよくする約束である。
またバドミントンの指導者が子どもたちになぜできないんだということ、自分にいうことに似ている。これはみずから指導法が分かっていないからそうなる。「天に向かって唾を吐く」と分かっていても、いわないでおられなくなる。これは自分が分かっていないから、いくらいっても無駄なのである。こんな指導はありがたくもなければためにもならない。虎よりも恐い。それでも子どもたちははいはいとしかいわないのだから指導者の良心は痛まない。
以上はかならずしも昔話ではない。いまもそうであるが、はいはいというようになっているから手がつけられない。間違った練習は反復されることによってより下手になると私はいう。野球の野茂英雄やイチローさんは投げ方や打ち方を直せといわれたので苦労した。その答えは直さなかったのが正解。
自分のことは棚にあげていえば指導者の指示通りにしか動かない選手は、まず指導者どまりで終わりだと私はいう。そんな選手は幼稚園児だった。世の中には一割現象というのがあった。すべての組織はつねに一割の落伍者を生んでいる。この一割現象はバドミントンの指導者もで、一割はすぐ首だといわれている。
お話し変わって私はテレビのつまらなさを嘆くが、お笑い番組を見てもらいたい。出演者ばかりが楽しんでいる。また大騒ぎしている。芸人がいなくなったのである。
いま出演者ばかりが楽しんでいても、それは白けるばかりである。見る側を粗末にするテレビが面白いわけがないと私はいっている。じつにおかしかったが、これは番組が面白いという意味ではまったくなかった。ことに番組担当者の頭がおかしかった。芸能人は日本人でありながら、正しい日本語を話せないでいる。この人たちの話している言葉は正しい日本語ではありませんと字幕に流せと私はいっている。
(*二〇〇八年二月十四日記)

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2008年2月 7日 (木)

弁当宅配すべし北京五輪 

かつて中国は粗悪なシャトルを日本に送って物議を醸した。最初はいい。安くて強いと好評だったのである。
このことは、何度もいった。その後がよくない。酷い。シャトルがぶれてまったく打つことができない。最初のころはよかったといっても、もう、そんなシャトルはこない。
これが彼らの商売なのである。打てないなら送り返すよりほかない。こうしたことは昔からあったのである。黙っているとろくなことはないのである。
こうしてそのシャトルは消えたのだった。いいシャトルだといっているうちに、粗悪なものを送ってくるようになり、打てなくては、さすがの私たちも使えないといわざるのやむなきに至ったのである。
最近もバドミントンの靴でそんなことがあったのである。靴の寸法には二十五センチ、二十五.五センチ、二十六センチとあった。とうぜん靴底のゴムの長さは二十五、二十五.五、二十六と思うのは、我々ばかりと知ったからである。
いや待て二十五も二十五.五も二十六も靴底のゴムは二十六だったというが、あれはまさかと思うのである。二十五の靴に二十六の靴底をつければどうなるか考えてもらいたい。靴底が反ることはいうまでもない。聞いたら吹き出す話だろう。
いま中国製の冷凍餃子に農薬が入っていたと騒がれている。中国で混入したことは明らかだといわれている。それなのに中国がちっとも謝らないのは、真相より国益を優先する国だからである。胡錦濤さんに中国製の冷凍餃子を食べさせるのである。恐れることはないのである。
ただびっくりするのは、日本の首相が食の安全より相手に諂っていることで、今後なにが起こるか想像もつかない。その方が不気味である。私はいま北京五輪の日本バドミントン選手団に熊本から弁当を宅配しようか考えているところである。
(*二〇〇八年二月七日記)

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2008年2月 1日 (金)

健身語録の三十(15)

■昨日やった練習は正しかった。もう、今日は通用しない。
■これからのバドミントンは倭僑、日本に頼るな。
■物をいうのはどれだけ自分を追い込み、様々な誘惑を断ち切ってきたか。
■表彰状が目的じゃない、優勝に至る過程が大事。
■前向きな心もまた選手の武器の一つだ。
■優勝のときより手術で病院のベッドのうえのときの方が貴重な体験。
■試合は笑った瞬間、窮地を抜け出すことができる。
■体力と技術は硬貨の裏表。
■故障は最良のソース。
■夢の大きさに苦しさは反比例する。
■百回の練習より一回の試合。
■指導者は跪いて生きるより、立ち上がって死んだ方がまし。
■体にやさしいバドミントンはすくなくても、心にやさしいバドミントンはすくなくない。
■好きでがんばればあらゆる可能性は開けている。
■選手はスポーツ界の物言い。
■試合で負けてもいい、けれどもやるべきことをやらない弱さには負けたくない。
■どんな選手でも順調なバドミントン人生などない。
■いまがんばらなければつぎはない。
■足腰こそ選手の命。
■試合中に反省するのがいちばんいけない、実力の半分も出せない。
■もっとも辛い練習をしているとき疲れを感じない、心も軽やかとなる。
■いつももっとできた、私の頭の中では。
■夢は逃げない、自分が夢から逃げているだけ。
■基本が荒れると試合も荒れる。
■選手の年齢は自分でつくるもの。
■バドミントンはダイアモンド。
■試合は二位を取りにきているわけではない。
■ラケットには創造がある、シャトルには自由がある、コートには人生がある。
■選手は悪い時期こそ成長できる。
■出る杭は伸ばせ。

(*二〇〇七年十二月二十七日記)

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