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2008年5月25日 (日)

オーストリアからのメール(16)

◆二〇〇八年(平成二十年)四月十四日
芦原コーチお久しぶりです。三月、芦原コーチが台湾にいらっしゃった時期は台湾総統選で盛りあがっていた時期ではないでしょうか。選挙とバドミントンはまったく関係はありませんが、また違った台湾の雰囲気でしたでしょうか。台湾の国際大会は優勝を狙っていらっしゃったんですね。残念かもしれませんが私は実際の試合を拝見したわけではないので三位でもじゅうぶん素晴らしいと思います。また団体旅行でなく一人旅をすると、良くも悪くもいろんな人に知り合えるし、いろんな経験ができいい思い出になりますよね。
私も右足の肉離れがようやく回復し、三週間前からどきどきしながらバドミントンを再開しました。二か月ほどバドミントンもせず、おとなしくしていたのですが自分でもびっくり、ぜんぜん退屈ではありませんでした。なんだか私はなにかしらばたばたして退屈する暇がないようです。ナディンちゃんが無事に進学校への進学も決まり、彼女自身も喜んでいました。来年のニコルちゃんがちょっと心配なところです。
毎年恒例の三月のスイスオープン準決勝観戦は子どもたちも一緒に行き、林丹から二人ともサインを貰ってきました。どんなサインかと見たらLDと書いてあり、こんなサインもありとみなで笑ったものでした。いちばん簡単で分かりやすいですね。毎年観戦をしながら思うこと、私がいつも競技しているコートと同じ大きさ。コートが本当にちいさく見えるのです。それだけ選手の動きが速いんですよね。フットワークにしても、ネットプレーにしても、すべてが違うと思い知らされます。
そうそうダビッド君がスイスオープンの審判員をしました。その一週間後、彼は中国へと向かったのでした。いつの日かまたオーストリアに戻ってくるか、そのまま中国で仕事を続けるか、とにかく中国での彼の人生が素晴らしいものになることをみなで激励しました。
芦原コーチは映画はお好きですか。「007」の次回作の撮影地に、ブレゲンツの湖上の音楽祭会場とフェルトキルヒの市街地が選ばれました。、来月あたりフェルトキルヒの街中は映画撮影中閉鎖されるそうです。映画好きの私は本当に嬉しくて撮影見学できるかしらと思っていたところに、ボンドの端役を千五百人応募と新聞に掲載されていて、映画好きな友達三人と応募会場へと足を運びました。けっきょく五千五百人応募が集まったらしく、確率から見ると無理だねと思っていたところになんと、先々週電話があったんです。
内容は私に黒い衣装をもっているかという電話でした。一緒に行った友達には電話もかかってきていないので採用される確率が高まってきました。今週あたりに結果を連絡するといっていたその返事がまだないのです。来週あたり電話しようかしまいかとうじうじしている私でした。
◆二〇〇八年(平成二十年)四月十七日
ボンドの端役の話しそんなに面白いですか。募集の日は狂っていたんです。端役の募集は金、土、日曜と三日間あり、前日木曜日のバドミントンの練習後、芦原コーチも行った料理店へいつものように飲みに行った際、みんなに今週末一緒にだれか行かないか聞いたんです。みんなに笑われました。私のような人を「わさもん」と熊本ではいうんですよね。
ドリスも、えー、みはる本当に行こうと思ってるのと信じられないって顔でした。私と一緒に行った、友人とメディコ、その友人は会場前のあまりの人の多さに1時間くらいで帰っていきました。募集の初日で会場の前は押し合いへし合い状態だったんです。
私にとって本当に初めての経験で、胸が圧迫されると危ないよとメディコと私、両手で鞄をひたすら前に握り締めて我慢しました。メディコは人が多過ぎて息ができない、こんなのグルジア共和国の革命以来だわ、圧死する人の気持が分かったような気がしました。
こちらの方々は身長が高いのでちいさな私は前方がどうなってるのかまったく見えないんです。こんなの狂ってると叫んでる人がいるかと思うと、じゃあ、出て行け、そうしたらすこしでも場所ができる。
私はメディコに、これも忍耐を試されてるのかもよといい方に考える努力。その中で待つこと3時間、外なので寒いはずなのに汗がだらだら、便所にもいけず。やっと入れた会場、手は震え、めまいがして、応募番号をもらって名前や住所や身長、胸囲、足、頭の大きさを測ってもらい書き込まねばならないが、手が震えて字が書けない。これではいけないと会場内でコーラを注文して飲んだコーラ。コーラがこんなにおいしいしいとは知りませんでした。しかし、やつれた姿で写真を撮られ、散々でしたが、結果よければそれでよし、ジェームスが見られるんですから。
昨日待望の電話がありました。四月二十三日、衣装合わせにブレゲンツに行ってきます。
芦原コーチはマレーシアに行かれるんですね。それではまた。みはる
(*二〇〇八年五月二十五日記)

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2008年5月18日 (日)

バドミントンのもう一つの敗北 

水泳の競泳で三十一人の北京五輪代表選手が内定した。代表選手はほぼ全員がスイミングクラブ育ちで、いまも練習は基本的にクラブでしていると聞いたから、そうだろうなと思った。水泳らしい。一九六四年の東京五輪で日本の水泳陣が獲得したメダルは男子八百メートルリレーの銅一個だった。
それなら立て直しが必要になる。参考になったのは二十二種目中、十六種目で優勝した米国だった。米国の国歌が水泳の歌と思われたほどの強さだった。ご記憶だろう。米国の強さがスイミングクラブの存在だったことはいうまでもない。スイミングクラブをつくらなければならない。子どもたちに泳ぎを教えなければならない。アテネ五輪を見ていたら、水泳の活躍だった。スイミングクラブの影響が大きい。合計メダル十個。
一九六五年にスイミングクラブの第一号をつくり、町のクラブに切り替えたのが水泳であり、現在、日本スイミングクラブ協会加盟のクラブは約千百になるのである。
自前のプールで水泳教室を開いている施設も、公共のものを除いても約三千百になるらしい。アテネ五輪の活躍の答えがここにある。その水泳は各地のスイミングクラブづくりを応援してきたが、バドミントンは恐れ戦く。
日本の水泳が十六年ぶりに金メダルを獲得したのは一九七二年のミュンヘン五輪だった。優勝した田口信教さん、青木まゆみさんともにスイミングクラブ育ちだったのに、いまだにバドミントンはこの体たらくである。バドミントンも近くそうなる。町のクラブをつくるしかないからいっておく。
それにつけても私たちが期待していた第二十二回ユーバー杯(二〇〇八年五月十一~十八日・ジャカルタ)は全敗である。世界で勝つのに町のクラブをつくらないで勝つなんていったって、そんなことできるものではない。ただ浅墓なだけである。
勝つどころかバドミントンの前途を危うくしてその自覚がない。三十数年前からいってきたことで、いっそ日本バドミントン協会が町のクラブでやると打ち出してはどうか。
ユーバー杯は惨敗で騒がれたが、遊びでバドミントンは滅びないが、教育では滅びる。これこそ「バドミントンのもう一つの敗北」だと私はいっている。町のクラブをつくるしかないから一考を勧めたい。
(*二〇〇八年五月十八日記)

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2008年5月14日 (水)

西螺の休日

西螺(シールオ)に行った。モーニングカップ国際バドミントン大会(台北体育館・二〇〇八年三月二十一~二十三日))の終わった翌日だからちょっと辛い。全國中等學校運動會羽球資格賽が開催されると聞いたからである。場所は雲林縣立西螺國民中學羽球館(國民中學)、雲林縣立羽球館(羽球館)である。白宜潔さんの競技を見る目的があった。彼女はモーニングカップで日本人の世話役をしてくれる謝恵麗さんの娘さん。
長身の十七歳である。台湾の星、基本練習は昨年見たのである。今回は試合を見てみたい。といっても西螺はどこ。台北の二百二十キロ南といわれても見当がつかないし。
台中の南の彰化のもっと南と聞いても分からない。ちょっと心配になる。それなら行ってみるまで。路程は①王朝大酒店~台北駅②國光客運巴士西站~西螺③西螺站~羽球館。早朝、台北から高雄行きの国光号に乗ったのである。約3時間のバスの中は中国語の世界だった。西螺站からは羽球館へ行くという高校生と一緒になる。羽球館の前に行ったら知人の呉文達さんの銅像があった。本部席に行って謝さんを尋ねたら國民中學の方だった。事務所で道を尋ねていたら白さんが駆けつけてきた。一年ぶりの再会を喜んだ。
國民中學へは、若いあんちゃんがオートバイに乗せてくれる。街を、ヘルメットもつけないで疾走した。國民中学に行ったら顔見知りの男性が声をかけてきた。試合を見ていたら林瞳露さんが審判をしていた。林さんはモーニングカップで混合複のペアを組んだ温秋琴さんの娘さん、世間は狭いことを実感する。
役員席に行ったら大歓迎で、精進弁当、枇杷、お菓子、珈琲とつぎつぎと出て温かい。みなよくここまでこられましたねといってびっくりしていた。謝さんに、よかったらもう一週間ほど残っていかれませんかと勧められる。帰りは西螺站まで古い街並みを眺めながら歩く。肝心の全國中等學校運動會羽球資格賽は、日本の高校生、中学生と同水準といったところ。西螺は醤油の産地である。20分ほど歩いたら西螺站に着いた。
西螺站からは高鉄の鳥日駅までバスが出ている。そう聞いていたら、そんな駅もバスもなかった。それなら、きたときの逆に帰ればいい。台北行きのバスに乗りたいといったら窓口の女的が困った顔をしている、どうも乗れないといっているようなので押し問答するうち、みななんだなんだといって集まってきた。
英語の話せる小姐の説明によれば今日のバスはすべて満席らしい。まずい。どうしても台北まで帰らなければならない、懸命に訴えたのである。そうしたら席を空けてくれたから、ありがたいだろう。時間があったので中山路をぶらぶらしていたら一つ前のバスに乗れという。ところが今度は購入した切符がない。また一騒ぎである。
出てきた切符は台北西站の窓口で払い戻しをしてくれると聞いていたが、これまた言葉が通じなかった。運転手さんがきてくれて、三百二十元が戻ってきた。私は何度も謝謝といって固く手を握った。それにしても声が大きいというのは、得である。みなすぐ集まってきて、なんだなんだといって、助けてくれる。
けれどもこんなの自慢にならないのである。台北駅の地下から南京東路までMRTに乗ろうとしたら、切符がカード式からコイン式に変わっていた。これは切符なのかと地元の人に尋ねる。台湾に親切な人多し、だれかうまい文章で書いてくれないか。書けばみな台湾が好きになるだろう。
(*二〇〇八年五月十四日記)

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2008年5月 7日 (水)

うまくなったねという

娯楽志向のバドミントンクラブに行ったときにはどうすればいいか、褒めるよりほかないと長年私は褒めちぎっているが、そればかりではいけないだろうからここですこしいうことにする。ただ褒めるときはコートの中ですぐいう。下手でもエリカうまくなったねと回りに聞こえるようにいう。
たとえば私がエリカと複のペアを組んだときだ。そのエリカときたら、うまくなったねといって褒めると、その喜ぶことひとかたではない。ただし、もうちょっとネット前ができるようになるといいのだけれど、とつけ加える。
褒めるといいのではあるが、褒めてばかりいると、まさかとは思うがエリカは増長するかもしれない。だから、もちょっとネット前ができるようになるといいのだけれどとつけ加えるのだ。まず最初にエリカうまくなったねと褒めて、有頂天にさせ、そしてもちょっとネット前をというと、一生懸命に聞いてくれるから私はにっこりする。
これがたとえば最初に、おまえはネット前が下手だ、というと駄目なのである。エリカがべつにといってふて腐れるのはそのせいである。日本のバドミントン指導者でもっとも欠けているのはこの姿勢であること、褒めることだ。選手のやることを肯定したらなんでも聞いてくれる。いま悪いのは最初に否定するそのせいである。
私はエリカに、エリカうまくなったねといって褒めるが、このごろ見られるようになったのは、長くやっておればだれでもそれなりにうまくなるからだった。さりとて市町村民体育祭以上の水準にはならないだろう。エリカたちの複は終始サイド・バイ・サイドで困っているが、四人で半面単をしていて、トップ・アンド・バックになることがないと、私は笑っている。
じつをいうと私はそれをいうことを控えている。
(*二〇〇八年五月七日記)

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