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2009年5月28日 (木)

健身語録の三十(20)

■バドミントンは一台しか選べない大切な車。
■打ち方の三条件①自分にあった型②間合い③応用。
■大切なのは独創性。
■指導に国境なし。
■自分の中に眠っているものを見付けろ。
■勝とうと思わなくてもいい、いつも勝てるようにやっていれば勝てる。
■試合で完璧を求めてはいけない、だいたいでいい。
■いい競技をしようと意気込むと一気に乱れる。
■バドミントンを好きになることは、心をちぎってあげること。だから、厳しい。
■バドミントンに台本はない。
■真剣さの足りない、必死さのないバドミントンは意味がない。
■不可能と思わなければすべて可能。
■チームはみなが監督で主将。
■自己を極めたものならしぜんと相手を讃える気持が湧く。
■力を出し切るから友情が生まれる。
■つねの心は試合の心、試合の心はつねの心。
■だれにでも紛れはある、でも、持続には努力しかない。
■世界一のなにかを身につけろ。
■バドミントンも人生もいいときもあれば悪いときもある、悪いときをどう乗り越えるかが大切。
■バドミントンは遊びだが、遊び以上のものだ。
■全力でやったことは伝説になる。
■情熱は川の流れに似たり/浅きはさらさらと音を立て/深きは黙して語らず。
■やっぱり一番は違う。二番、三番とは違う。
■倒れて立ちあがるものと立ちあがらないものには差がある。
■出る杭になってどんどん打たれろ。勉強して、考えて、流されないで。
■選手のもっているなにかを引き出すのが指導者の才能。
■できないことをやるのが練習だ。
■試合はなんとかなるではなくてなんとかする。
■試合で頭が真っ白になる、力が出ない、夜眠れない。それで勝つのが実力だ。
■バドミントン人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とすこしのお金。
(*二〇〇九年五月二十八日記)

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2009年5月21日 (木)

サービスは私を弄ぶ

第三十八回モーニングカップ国際バドミントン大会(台湾)に出場して、私はすこし神経症になった。六十歳男子甲組単の決勝は世界一のChaisak Thongdejsri選手(タイ)からドライブ・サービスをぶっつけられたのである。九割がドライブ・サービス、一割がショート・サービスだった。
一発もスマッシュを打たせてもらえないでいる。試合をした気になれずにいる。彼がドライブ・サービスでくることは分かっている。抜群に巧い。巧いが二年前の世界シニア選手権大会で一度対戦しているので知らないではない。それでいてやられる。
私はドライブ・サービスがきたらスマッシュにもっていこうと待ち受ける。それも束の間、シャトルが肩の高さにくる。どんどんくる。たちまち処理に困る。打てないだろう。相手の思う壺である。
仕方なくロング・リターンで返すのである。すると切れ味の鋭いカットが飛んでくる。ドライブ・サービスを注意しているとショート・サービスがくるが、後ろへ伸ばせば強烈なカットとフェントの利いたクリアーがくる。それが分かっているので、ネットへ返すしかない。
すると今度は強烈なフェイントをかけてネットに置き換えすから始末が悪い。絶対にあげない。私にじゅうぶんな体勢にならせないように、じつに頭がいい。ドライブ・サービスで崩して、先手を取ると、ラリーを続けないで終わらせるのである。
まるでバドミントンにならない。これが彼の戦法だった。世界にはいろいろな型のバドミントンがあった。これからはサービス一発で仕留めるテニスのようなバドミントンを考えなければならない。そう思うのはThongdejsri選手のせいである。
サービスは新規則によって約九センチうえにあがったのである。旧規則ではラケット全体が手より下でなければならなかったから、サービスをする側が不利だったのである。いまはシャフトが下向きであればいいようになったように、今後ともサービスは私を弄ぶのである。
(*二〇〇九年五月二十一日記)

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2009年5月14日 (木)

都道府県バドミントン協会

みなが呆れているのに当事者が呆れないことが山ほどある。ことに都道府県バドミントン協会(協会)にある。いま多くの協会は機能不全に陥っていた。そうしてみれば何事だとみなは思うが協会は思わない。いままでなにもしてこなかったから、いまさらなにもできないのだろう。
なぜだろう。旧態依然としていた。このことに私は驚いている。
誤った固定観念に支配され、なにもしないとはどういうことだろう。だいいち協会に規約が五十年以上もなかったなんてみなは夢にも思わなかった。
協会は自分の都合の悪いことなら努めていわないからこれもその一つなのだろう。いまの時代にホーム・ページ(HP)もなくやっている。あっても更新されないでいる。HPは情熱の目安といわれる、ここにはそれがない。
一貫指導とよくいうが、一貫してないのが一貫指導だろう。選手のプロ化、指導者のプロ化、組織のプロ化が必要だというが、協会はいわないのか。どうしたらいうのか。
協会の無策はいま始まったことではない。いちど解体した方が、いいのではないか。組織は人、金、物が大切といわれる。解体はすこしは役立つだろう。
協会は組織が機能してないのを知りながら、それを歯牙にもかけなかった。由緒ある大会が中止になったり、怠慢が続いたりするのは、無責任ではないか、命を賭けてバドミントンの仕事をする人がいないとみなは思うが協会は思わない。もう一つ肝心のバドミントンを本気でよりよくしようと思っているのか、これまたいわないから分からない。だれもなにもいうはずがないと知って安心しているのではないか。
この問題には古参幹部が絡んでいると見ている。彼らはほとんどが現状肯定で、いつまでも引退しないで、年に数回、あるいはまったく顔を見せない人物たちである。親しいがゆえに馴れ合いや遠慮が生じるのかもしれないが、退いてもだれも困りはしない。なのになぜか一言も触れない。大方の協会とはつねにかくのごとしという例の一つとしてあげた。
(*二〇〇九年五月十四日記)

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2009年5月 7日 (木)

ちいさくてもできる

小学一年生の保護者から質問を受けた。うちの子は体がちいさいですがバドミントンだいじょうぶでしょうかというのである。心配するのは保護者だけではない、みなそう思うのだ。確かに体はちいさいより大きい方がいいが、バドミントンは体がちいさくてもできることはあなたも承知のはず、と説明した。
バドミントンは背の高さが実力を決めるのではない。背の低い選手は多いのである。アジアの選手はいい例だろう。それなら希望がもてるだろう。
バドミントンは身長はあまり関係なかった。それよりは俊敏性がいる。おおきな選手にはそれがない。小回りも利かない。体が大きいからといってすべてに有利なわけではない。背が低いなら他の能力で補えばいいのである。小よく大を制するのである。
これは、日本バドミントンの極意である。要は自分に合ったバドミントンをする。ちいさな選手は体の均衡がよくて、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。
動きも速いし、上背がないというなら、そんなに心配することはない。それより頭の回転である。背が低くても、技術を磨けばいいといっているが、「そうは問屋が卸さぬ」。しばしば論争になる。だから、まずちいさいことを有効に活用するんだよといって聞かせ、ほら、おおきな選手より速く動けるだろう、それだよといったうえでのお話しである。
(*二〇〇九年五月七日記)

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2009年5月 2日 (土)

百獣の王ライオン

あるところにバドミントンの好きなライオンの親子が住んでいました。
一日の練習が終わりお風呂に入ることになりました。
お母さんライオンが子どもライオンにいいました。
お風呂に入ったらお湯の中で百回手首の運動をするんですよ。
子どもライオンははーいといってお風呂に入り、一、二、三、四、五、六、七、八…九十九、百と数えました。
そしてお母さんライオンにいいました。
お母さん百数えたよ。
お母さんライオンはいいました。
もう十よ。
これからライオンは猛獣、百十の王ライオンといわれるようになったということです。
ぱちぱち。
(*二〇〇九年五月二日記)

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