複のフットワーク
バドミントンの複のフットワークの練習だが、だれもしない。前衛はサイド・ステップをしながらプッシュを繰り返す動きをしたい。後衛は左右のドライブを返す動きになった。
単とはまったく異なる、左右に飛びついて、ジャンプ・スマッシュを繰り返すが、守備位置からネット前に飛び込んでドロップを拾う云々。
(*二〇二五年七月十四日記)
バドミントンの複のフットワークの練習だが、だれもしない。前衛はサイド・ステップをしながらプッシュを繰り返す動きをしたい。後衛は左右のドライブを返す動きになった。
単とはまったく異なる、左右に飛びついて、ジャンプ・スマッシュを繰り返すが、守備位置からネット前に飛び込んでドロップを拾う云々。
(*二〇二五年七月十四日記)
バドミントンを御覧あれ。一生上達させない方法があるのだった、初心者には、ウェスタン・グリップで握らせるのである。
万力のように握り締めさせるのである。振りは手首を利かせろと強調したい。
失敗が増えるだけだ。またフォアハンドができるまではハイ・バックハンドは使うなとはよく聞くだろう。一理あるとはいえ、永遠の初心者にするのはいただけない。
(*二〇二五年七月七日記)
バドミントン界には何事もimpossible(不可能)と考えるものがいる。そう考えるとたいていできないからI`m possible(可能)と考えてはどうか。
できないと考えるのは頭がいいのだ。自己保存の本能だ。脳は止まるだろう。
問題はなぜできないかではなくなぜできる。そのことならみなには分かっているはずである。私でさえ分かるくらいである。
(*二〇二五年六月三十日記)
バドミントンの複だが、三球目が大事と私は思っていた。試合の肝臓だという思いをした。三球目を制するものは複を制するが、一にサービスをする場所である。
二に打つ場所、三に予想して動くことではないか。前衛は返球が怖くて、屈んではいけないといえばたぶんみなさん頷いてくれるのではないか。
前衛は後ろ気味だと打ちやすくなる。中間を意識してシャトルを沈めよう。
(*二〇二五年六月二十三日記)
バドミントンの強い人は一つ一つの精度が高くなる。失敗が少ない。バドミントンは攻めなかったら、勝てないのである。
ただ攻めると、隙ができるのである。攻撃に気を取られる、守備がお留守になってしまうからである。
なお顎があがると後ろへ下がれなくなるのである。またフットワークの極意は待つことである。どうやって動かないかを考えたい。
(*二〇二五年六月十六日記)
私はちびっこたちにバドミントンのラケットを握らせて五十七年になる。したくてしたのではないが、だれもしないから、自分でするしかなかったのである。何度もいうが昔は全国小学生バドミントン選手権大会を開こうといっても、欧州型のスポーツ・クラブ組織をつくろうといっても、だれもしない。
ざっとこんなわけで四面楚歌だったのである。いまは普通だから笑っている。
(*二〇二五年六月二日記)
バドミントンはなかなかネット前に行けなかった。行けるのに行かないという、シャトルがくるのを待っていた。それでは好機はこない。だから、前に出ろというと大騒ぎになる。
前に出ることは忘れられた。出ないことが当たり前になったからである。動いていると前に行けた。止まっていたら行けないって。
(*二〇二五年五月二十六日記)
バドミントンは理にかなった練習をすると強くなるだろう。才能があると、どんな練習をしても強くなるものは強くなるだろう。なければどんな指導者がついても強くならないものは強くならないのである。
もとより、練習×才能×考え方の掛け算というのが私の持論で、バドミントンは、「栴檀は双葉より芳し」と思われるのである。
(*二〇二五年五月十九日記)
将士の脳活動は攻めは後部、守りは前部という。プロは将棋の手を読んでいるときは右脳で感じる。アマは左脳で考えるのだ、プロといえども形勢が悪くなると左脳が出てくるという。優勢のときは右脳が出るという。右脳が重要なのは意欲に関する領域があるためらしい。右脳は左脳よりもはるかに速くて正確になる。バドミントンは右脳を鍛えると強くなるな。大選手は脳が凄い処理をしているな。脳機能の高さが超演技を可能にしている。
(*二〇二五年五月十二日記)
有能なバドミントン少年は才能の極限まで上達して、無能な青年になる。無能な少年はそのまま終わる。
有能な青年は日本一になった。さらに世界一になって、そこで終わった。
みながんばって無能の域に達する。私はそれを見た、バドミントン界は無能な人間で埋め尽くされるのだ、組織はまだ限界に達していない人によって遂行されると知った。
(*二〇二五年五月五日記)
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